昭和の終戦直後、日本のラジオから“英語の声”が流れ始めました。
その声の主こそが、NHK『カムカム英語』の講師・平川唯一(ただいち)氏です。本書『カムカムエヴリバディの平川唯一』(平川洌 著)は、戦後日本をラジオ英語番組を通じて明るくした人物の足跡を辿る、珠玉の評伝です。
本レビューでは、ドラマ『カムカムエヴリバディ』のモデルとなった平川氏の実像に迫ります。貧しい農村での過酷な少年時代から、アメリカ移民生活を経て、日本帰国後には玉音放送の通訳を勤め、そして僅か5年間の放送で社会現象を巻き起こしたカムカム英語の立ち上げからその終了までを丁寧に追いかけます。
なぜ彼の声は、50万通のファンレターを集めたのでしょうか──
その魅力を、ぜひ一緒に辿ってみませんか?
第1章:貧しい農村の少年が声を得るまで
岡山県の貧しい農村に生まれた平川唯一(ただいち)さんは、後に日本中の耳に“英語の声”として親しまれることになります。しかし、少年時代は決して成績が優秀だったわけではありませんでした。
借金の返済のためアメリカへ出稼ぎに行った父親が留守にしている家庭で、厳しい母親のもと、進学も許されず、朝早くから夜遅くまで農作業に明け暮れる日々──「学ぶことすら許されなかった」少年時代を過ごしました。
そんな彼の運命が変わったのは、父の出稼ぎ先であるアメリカに渡ったときです。線路敷設の過酷な労働を経て、小学校へ入学しました。早い人であれば1~2年で卒業できるところを、不器用な彼は「3年間」アメリカの子どもたちと遊びながら学ぶ中で、自然と英語の基礎をじっくり身につけていったのです。
“赤ちゃんになったつもりで声をまねる”──後のカムカム英語で語られた学習法は、このとき既に彼の中に芽生えていたのかもしれませんね。
大学では当初、物理学を専攻しましたが挫折し、演劇科に転向しました。そこで、キングズイングリッシュ(英国標準英語)の発音や抑揚を徹底的に学びました。努力家であった彼は本領を発揮し、首席で大学を卒業します。それは後に、NHKでアナウンサーを務めるための声の礎となりました。
引っ込み思案で、貧しく、特別ではなかった少年が、英語を“耳で学び、声で伝える”力を身につけました。
そして、ここから、ラジオ英語講師 平川唯一さんの物語が始まるのです。
◆第2章:玉音放送と占領下のラジオ
太平洋戦争が終わった1945年8月15日、全国民が正午の玉音放送に耳を傾けました。その1時間後、もうひとつの「玉音」が世界に向けて発信されました。英語に訳された昭和天皇の詔書を、マイクの前で読み上げたのが当時NHKのアナウンサーだった平川唯一さんです。
この重要な役目を担った背景には、彼の語学力だけではなく、信頼される“品格”があったことも関係していたと思います。後に平川さんは、「人生でこれほど緊張したことはなかった」と語っています。
国の行方を左右するメッセージを、外国語で、マイクを通じて伝える──まさに歴史の声を代弁する瞬間だったと言えるでしょう。
そして戦後の混乱の中で、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から新たな命令が届きます。「マッカーサー元帥が数日以内に来日する。その際、日本国民に向けたメッセージを発信する準備をせよ」という指示を受け、英語に堪能なスタッフとして選ばれたのも、やはり平川さんでした。
彼は新品の白いシャツを着て、指定された横浜税関ビルの迎え入れの準備を始めます。しかし、その施設は埃まみれで、床もトイレも汚れきっており、「客人を迎えられる状態ではなかった」といいます。そこで平川さんは、腕まくりをして汗びっしょりになりながら自ら掃除を始めたそうです。そして数日後、放送室に現れたマッカーサー元帥は、驚いた表情でこう言ったといいます。
「どこも汚れていると思っていたが、ここだけは美しい」
これは、アメリカ軍に媚びる行動ではありません。敗戦国であっても、日本人として「凛」とした態度で向き合いたい──そう考えた平川さんの“誇りの行動”でした。
この行動をきっかけに、彼はマッカーサーの側近であるハリス大佐からも信頼を得るようになりますが、その信頼がこの直後に、平川さんに苦く、そして辛い運命を引き寄せることになります。
手狭で通信設備も貧弱な横浜税関ビルでは十分な広報活動に支障が出ると判断され、GHQは「日本放送協会(NHK)を接収する」ことを決定します。通訳としてその現場に同行したのが、ほかでもない平川唯一さんでした。抵抗し建物の玄関に鍵をかけて籠城を決め込むNHK上層部に対してGHQハリス大佐が、こう言い放ちます。
「ドアを開けなければ発砲する」
そして、その言葉を──日本語に訳してNHKの幹部に伝えたのが、平川さん自身でした。その翌日、NHKの上層部から呼び出された彼は、その行動を責められたといいます。
自分がやらなければ他の職員の誰かがせざるを得ない役割だと理解しましたが、“裏切り者”のように扱われたことに深く胸を痛めたことでしょう。彼は8年間務めたNHKに、辞表を提出することになるのです。
しかし彼は、過去にも何度も“ゼロからの再出発”を経験してきた人です。
静かにNHKを後にしたその背中は、どこか潔さと強さをたたえていたように思います。
◆第3章:カムカム英語、誕生の瞬間
NHKを去った平川唯一さんに、再び声がかかりました。
1945年11月、NHKで教養番組を担当する山崎省吾(やまざき・せいご)さんが「これまでにない英語番組を作りたい」と相談を持ちかけてきました。
当時のラジオ英語講座といえば、道の尋ね方や買い物のやりとりなど、定型的な会話文が中心でした。しかし山崎さんは「もっと生活に寄り添い、心に届く番組が必要だ」と考え、その新しい試みの講師として、白羽の矢が立ったのが平川さんでした。
ところが、平川さんはすぐには承諾しませんでした。
「自分は教育者ではありません。文法を教える力はないのです」と、辞退を申し出たそうです。
そんな彼の背中を押したのは、ひとつの新聞記事でした。
読売報知新聞に掲載された、ある高校生の投稿です。「これほど英語が必要な時代になったのに、学校教育は“重視”と言いながら、英語を話せる日本人を育ててこなかった」
この言葉に、平川さんは衝撃を受けます。まさに自分が感じていたことそのものだったからです。
「英語を学ぶ」ことは、“文法を教えられること”ではない。
声を出して、耳で覚えて、遊びながら親しむこと──それが自分の伝えられる英語学習方法なのではないか。
そう考えた平川さんは、番組の構想を練ります。
「一日、二日英語の歌を教え、その歌を利用して講義を始める」
楽しく、自然に、子供が言葉を覚えるように、努力を必要としない普及を実現させたい。それは、アメリカの小学校で3年間、子どもたちと遊びながら身につけた、あの経験そのものでした。
山崎さんは、この提案に深く感銘を受け、番組化が即決されます。
そして、1946年2月1日──終戦からわずか半年後、ラジオから平川さんの温かな英語の声が再び流れ始めました。
『カムカム英語』の誕生です。
◆第4章:家族をつなぐ声、歌になった英語
1946年2月1日午後6時30分、終戦からわずか半年後に始まった『カムカム英語』はラジオから流れる15分間の番組でした。
その声の主である平川唯一さんは「赤ちゃんになったつもりで、まねしてみてください」と、優しく語りかけます。
英語を“教える”のではなく、“楽しむ”ことを目的にした、まったく新しい英語番組でした。
そして、第2回の放送から流れたテーマソング──「Come Come Everybody」。
「証城寺の狸囃子」に英語の詩を乗せたこの曲は番組の代名詞となり、瞬く間に日本中に広まっていきました。
今でこそ番組にテーマソングがあるのは珍しくありませんが、当時はすべて生放送でした。ピアノ伴奏と子どもたちの合唱隊を、毎回スタジオに呼んでの放送だったため、大変な労力を要したのは想像に難くありませんね。しかし「明るく、親しみやすい番組を届けたい」という思いのもと、関係者全員が力を尽くしました。
この歌は、単なる英語の歌ではありませんでした。
多くの日本人にとって初めて“英語を口ずさむ体験”となる、希望のメロディだったのです。
ある幼稚園では、入園式に参加した園児全員が「Come Come Everybody」を歌えたそうです。それほどまでに、子どもたちの耳と口に自然に馴染んでいたのですね。
さらに、平川さんはこう呼びかけました。
「できれば、お父さんやお母さんと一緒に、ご家族そろって聞いてみてください」
英語の勉強番組でありながら、家族の時間を作る番組でもあった──カムカム英語は、そんな特別な存在になっていきました。
戦争で失われた日常を、ラジオから流れる英語の歌と優しい声が、少しずつ、もう一度つなぎ直していったのです。確かに朝ドラ「カムカムエヴリバディ」でも主人公たちが家族と一緒にラジオから流れる平川先生の声に耳を傾けるシーンが印象的でしたね。
◆最終章:声は時代を超える
カムカム英語は、わずか5年間の放送で幕を閉じました。
人気絶頂のなかでの終了は、NHKと平川さんとの間で生じた経済的な問題、いわゆる“大人の事情”が関係していたようです。
終戦からの復興を支え、子どもからお年寄りまでが夢中になった英語番組。
その役割は、時代が次の段階へ進むとともに、静かに幕を下ろしたのです。
その後、平川さんは民放ラジオでカムカム英語を再開しましたが、全国ネットワークが整っていない時期だったこともあり、かつてのような爆発的な人気には至りませんでした。さらに時代はテレビへと移り変わり、ラジオというメディア自体が、役目を終えようとしていたのです。
ですが、あの「Come Come Everybody」のメロディ、そして「赤ちゃんになったつもりで、まねしてみてください」という声は、いまも多くの人の心に、優しく残っています。
50万通のファンレターが届いたのは、英語力のためではありません。
言葉を越えて伝わる“やさしさ”や“希望”に、人々が耳を傾けたからだと思います。
「カムカム英語」は、単なる語学講座ではありませんでした。戦争で完全に分断された米国と日本の架け橋になる運命を背負った、一人の男の人生そのものだったのです。
そしてその声は──今も、ラジオの彼方から、私たちに静かに語りかけているような気がします。
まとめ
平川唯一さんの人生は、ただの英語講師の物語ではありません。 貧しい農村に生まれながらも、アメリカでの移民生活を経て、英語という言葉を「声」として伝える力を得た人物でした。
終戦直後の日本で、ラジオから響いた彼の英語の声は、人々に希望を届けました。 玉音放送の通訳という歴史的な役割を果たしながらも、GHQとの関わりによって苦難を経験し、NHKを去ることになります。 しかし、彼は再び新たな挑戦へと歩みを進めました。
『カムカム英語』は、単なる語学講座ではなく、日本の戦後復興の象徴とも言える存在でした。 「Come Come Everybody」のメロディとともに、子どもたちだけでなく、大人たちにも英語を親しむ楽しさを伝えました。 それは、戦争によって失われた家族の時間を取り戻す、温かいひとときでもありました。
たった5年間の放送で幕を閉じた『カムカム英語』。 しかし、その優しい声とメロディは、今もなお多くの人の心に響き続けています。
戦争がもたらした断絶を埋める架け橋として、英語を教え、希望を届けた平川唯一さんの功績は、決して色褪せることはありません。 彼の「声」は、時代を超えて、ラジオの彼方から私たちに語りかけているのです。

最後までご覧頂き有難うございました
平川先生の一生、是非ご一読くださいね
ここで伝えきれなかった魅力を感じられますよ!




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